思考の掃き溜め

森のなかを駆け巡りながら色々考えたことのストック、とたまに日常のこと

就職活動を通して思ったことのメモ

全体的にまとまりがなかったので一つの記事に集約しておきます。

あくまで僕個人の意見です。

 

就職活動を通して感じたこと

・自分のことって案外良くわかっていない

これは普段からも常々感じていましたが、自分の考えていることを言葉でロジカルに表現することは難しいです。自分の価値観にこだわりすぎず多くの人と接触して価値観をすり合わせ、客観的な意見をもらい自己の価値観を再構築していくことは就活に限らず人生を豊かにするのに大事だと思います。その点で、こうしてブログやSNSに文章を書いたり、オリエンテーリングを通して様々な環境・世代の方と意見を交わすことの出来た経験はとても大きなものでした。

また、その言語化が出来ないと自分がなにがしたいのかも見えてこないため企業選び・面接・ESあらゆる場面で困ると思います。恐らく人事の人が見ているのはそこなのだろうと一連のことを通して感じました。世間でよく聞く薄っぺらい就活情報なんて気にせず、普段から自問自答して過ごすのが最良の就活対策になりうると感じました。

 

・人生何があるか分からない

最終的に全く考えてなかった業界の研究職に落ち着きました。しかも、後述の通り偶然に偶然を重ねたような出会いの末にです。たまたまといえばたまたまですが、積極的に自分の知らない世界を顔を突っ込んで見るというスタンスで過ごしてきたがゆえに掴めた出会いだったと思います。「持っている」人は環境を引き寄せる、とよく聞く言葉がありますが、というよりそういう人たちは目の前に転がっているものを恐れること無く取り敢えず掴むからチャンスを逃さないと思っています。自分が100%そうやって生きていけているわけではないですが、こうしてワクワクするものを掴めたのでそう考えてきてよかったなぁと思います。思えばこんなに今の人生を楽しくしてくれたオリエンテーリングとの出会いも、合唱漬けだった高校生活からえいっと新しいスポーツを初めてみたからでした。

 

就職活動、辛いという話がもっぱらですが自分のことを考える機会、人に自分の話を聞いて貰える機会として捉えられるなら楽しめると思います。

 

自分自身の言動に責任をもつということ。

最近また1つ自分の中で価値観が少し固まってきたので久しぶりに

 

自立した大人と、高校までの生徒の大きな違いはなんだろうか。高校までは立場が上の人にやるべきことをを与えられて、それをこなしているだけで評価されるけども、社会に出てはそうは行かない。そこの緩衝材になるのが「大学」という四年間。本来の「大学」のあるべき存在意義とは異なりますが、日本においてはそのような点に重きが置かれています。

「自分で考えて、意思決定をして、行動して、失敗した/成功した。」ということの経験の有無は大きく人の価値観をひっくり返します。言うなれば「自分の言動の責任をすべて自分が持つ」ということです。いままで言われたことをしっかりとこなしていれば褒められ、承認欲求を満たすことができていたのに、突然そうではない場に放り込まれます。「自身に責任をすべて持つ」ことをそれまでにこなしてきている人はそういないと思います。

僕の場合は高校での生徒会長での経験、などよりも親に「いいんじゃない」の一言で始めた東大に向けた受験勉強でした。僕の親は基本的に放任主義なので息子が何をしようと徳には何も言いません、そんな環境の中で仲の良かった友達二人がどちらも東大志望だったのでなんとなく流されて、僕なりに一生懸命に1年ないし半年はやってきました。そんな自分で始めたものがあっけなく本番二次どころかセンター試験で爆散してしまった時の衝撃はそれはそれは凄いものでした。それから今の筑波大を受験するまでの自分の意志の記憶は殆ど無く、地学・生物で受けられると理由だけで適当に選んで適当に受かっていました。

自分で勝手に始めたことなのでその失敗の責任をどこにも押し付けるけることが出来ずに、全て自分で飲み込むしかありません。僕は筑波大学に入ってからもその消化に半年以上かかりましたが、飲み込めた後に気がついたことは「今の自分の立場、価値観は自分の決定によって定められたものなんだな」というとこでした。この感覚は僕の中でとても大きい収穫で、それ以降僕は自分の言動の全てが自分の価値を決める、何も自分で決めなければ誰にも認められない、と思うようになり、大学に入るまで知りもしなかったよくわからないマイナースポーツに打ち込んだり、そんなスポーツの団体の運営に躍起になっています。実際それは外の人から見たらどこに価値を見出しているのかは分からないものかもしれませんが、自分の中では確かに自分を高めるものになっている実感があります。とても今が楽しいです。

そんな楽しい感覚を知ってもらいたくて、僕は部員に色々とうるさく話します。競技に打ち込めといっているわけではなく、せっかくこんなマイナースポーツの団体に属しているのだからそこに属している意味を自分で考えて見出してみようと。そんな感覚の押し付けは自己満足でしかないことはわかっているのですが、僕は楽しいのでその楽しさを知って欲しいです。

 

相変わらず書いている間にまとまりがなくなるのは良くないですね。

「出来るか出来ないか」と「やるかやらないか」

「僕はそういうこと出来る人間じゃないので」

僕が最近良く聞くフレーズです。

それを聞くたびに思うのが

「出来ないこともやっていかないと出来るようにならないのでは?」

 

この問答が最近僕を悩ませます。またあくまで独断と偏見の話になってしまいますが。

 この世の中には「出来るか出来ないか」なんてものは存在していなくて、「やるかやらないか」しかない、と僕は考えています。だって100%出来ないことなんて無いじゃないですか、僕がオリエンテーリングのインカレチャンプになることだって決して0%ではないはずです。たとえそれが今は1%だったとしても、そこで挑んで失敗してその経験を次に活かせば次は2%になるかもしれない、それがいわゆる『成長』なんじゃないかと僕は捉えています。

 なので、上の問答があった時に「やらないと出来るようにはならないよ?」とつい返してしまいます。この問答で僕が伝えたいのは「動こうよ」、この一点に尽きるのですが、僕は伝え方がヘタクソなために多くの場合がこのような印象を与えてしまいます。「俺の真似をすれば成功するんだから黙って言うとおりにしておけよ」と。

 これがすごく反感を買ってしまうのを最近すごく感じていて、どうやって伝えたらいいんだろうかとずっと頭を抱えているわけです。基本的には結果で示して、成功例を目の前で見せることで刺激を与えようと画策しているのですが、実際はその成功した結果だけが客観に写り「成功してるからそんなこと言えるんだよ」という印象を与えてしまいます。当然僕は全知全能の神ではないので成功するまでには当然失敗するわけです、しかしその様子は余り人の目には写りません。しかしその失敗をアピールするのも僕の美学に反するのですごく複雑なのです。結果として「田中さんは彼女もいてオリエンもそれなりに速くて完璧超人ですから」っていうような印象を持たれることになります(僕の妄想も入っているかもしれません)。

 最近はこれは良くない(駄目だ、ではなく良くない)と思い、伝え方を色々工夫しようと思っているのですが、人間そう簡単には言動を変えられません。しばらくは試行錯誤の辛い時間が続きそうです。果たして人は変われるのか、変わろうと思えば変われる、僕はそう思います。

総合的な要素で勝負したがる話

もう一個さっき気がついたことのメモ書き

 

僕は基本的に自分自身には自信がないです、どの要素においても自分が一番になれたことは今までの人生でありません。色んな場面で人と対峙すると漠然と「負けたくない」と思います、ですがやはり勝てないんですよね。となると自分の中で(勝手に)総合的な勝負を持ちかけます。凡人だと自分を思い込んでいるからこそ、何かの天才ではないからと自覚しているからこそ、あらゆる要素を足した値で勝負したいを思ってしまうのかもしれません。今まで人生で総合的に完敗だ!って思った相手は数えきれるほどしかいないかもしれません。自分自身に自信はないですが、自分がやってきたことと考えてきたことには強い自信を持ちます。

なかなかややこしいですが、「あーたしかに…」とさっき自分自身について気がついたところのメモ