思考の掃き溜め

森のなかを駆け巡りながら色々考えたことのストック、とたまに日常のこと

そこにある世界

※ネタバレとかは特にないです。

 おそらく高校2年生とか、そのあたり以来に小説を読んでみた。

 

 きっかけは4月から社会人として研修を受け続け、「自分の勤める会社」の枠組みに詰め込まれた価値観に触れすぎたことによる過食中毒だった。学生ではなくなり、平日の夜に適当にひとに声を掛け、酒を飲みながらだらだら話すような時間を作ることが出来なくなった。何か、他の価値観に触れないといけない、ふらっと手に取ったのが本屋の店頭に置かれていた恩田陸の「蜜蜂と遠雷」。選定に特に理由はなく、強いていうならば大衆受けをすることを示す受賞歴くらいだった。

 あらすじはオーソドックスな「音楽の演奏」に懸ける人々の群像劇で、そんなにインパクトのあるものではない。しかし読み終わったいま、脳天が痺れるような余韻に浸っており衝撃を受けている。中高生時代によく小説を読んでいた時もこんなにも心地良い快感の中にいたのだろうか、最早思い出すことは叶わない。もし、この快感が今となって楽しめるようになったものだとしたら、自身の中でどのような変化があったのであろうか。

 本の中の登場人物達は「演奏」を通じて、世界へ自己の発露を行っていく。コンクールの舞台袖からステージへ出ていく前に「なぜここで演奏しなくてはいけないのか」「なぜ演奏するのか」を、自身に藻掻き問いかけながら自身の足で扉をくぐりステージに立つ。しかし、演奏が終わりピアノから指を離すときには得も知れぬ充足感、万能感に満たされる。「自分はここにいるのだ」と確信を得て、万客の拍手のなか舞台袖へと戻っていく。もちろん人ごとに背負っている責任、価値観が異なるため一様には言えないが、自分はその感覚を「知っていた」と気がついた。「知っていた」というより、いつの間にか持っていたものを半ば強制的に引きずり出されたと言ったほうが正確だろう。与えられた責任に対して気負いやストレスを感じつつも、終えてみれば満ち足りた気持ちになり一刻も早く次を!という一心に覆い尽くされる。次も同じ、もしくはもっと大きな苦悩、それどころか自分を裏切る結果が待っているだけかもしれないことを知っているのに。それはキャラクターに対していわゆる共感を抱いただけのことにすぎないのだが、その共感により初めて過去の経験が自身を構成する1つのパーツになっていることを実感することができる。それは紛れもなく自身の行動が世界と繋がっていると存在を肯定される感覚であった。

 また、物語には自我を飾ることなく無邪気に表現することの出来る少年が出てくる。「自分は自分のままに」行われる演奏は、自己問答の中で複雑に絡まってしまった人々の価値観の根底に容赦なく、不意をつくように触れてくる。幾人の審査員は自身も理由が分からない内に激情に駆られ、同じステージに立つコンテスタント達はいつの間に埋もれてしまっていた自身が演奏する根源を少年の演奏の中に再び見つけ出していく。「天才」と呼ばれる人々も自己に問い続け、共感することで自分を見つけていくことには変わりない。妬ましい天才達と才がないと自覚する自分も同じなのだと、そんな表現も琴線に触れるものがあったのかもしれない。

 

 共感できるものは自己内で理解できるものと同義であり、それが増えるということは自身の認識できる世界が広がるということに他ならない。そこにある世界は変わらないのに、認知とともに自身の世界は広がっていく。ここ1年くらいで急激にその世界が広がっていることを実感し、それを楽しみ、嬉しさを感じつつ、死ぬときになって「あぁ、もっと見えるようになりたかったな」と悔やむのは嫌だなと思ったりする。

 何かに対して剥き出しの自我を向き合わせた経験が、確かに自分になることに二十数年生きてきたことでようやく「知った」。だから自分は向き合い問いかけ続けるのだ。

 

 ~余談~

 ここ数年評論文のようなものばかり読み続けていたため、同じ文章であっても小説というもの性質の違いにも驚いた。評論文は自己を削り出した末にその形が顕在化したものだが、小説は自己の外部に言葉で世界を構築することで生み出される。例えるなら一本の木材から削り出した彫刻像と、自身で選択した食材を組み合わせ調理した料理が近いような気がする。前者は鑑賞することで自分の手元にある彫刻像と比較する事ができるが、後者は直接摂取し味わうことが出来る。すなわち解釈の必要性の有無であり、口に合う合わないは調理法を知らずとも感じることが出来るのだ。なるほど「小説」という表現はこういうものだったかという気付きがあるとともに、その味を出せるようになるまでの料理人の背景に思いを馳せることを含め隅々まで楽しむことが出来る。たった2,000円で最高のディナーを味わった気分だった。

 自己から切り離されたところに世界を築く。言葉を「紬ぐ」とはよく表現したものだと思う。

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たった10ヶ月前に書いた文章ですら、いま読み返すとなんか違うな…と苦笑してしまうのもきっと見えるものが少しずつ変化しているから、な気がする。

なぜ走るのか - 思考の掃き溜め http://sugamoto.hateblo.jp/entry/2016/07/26/%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%B5%B0%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B