思考の掃き溜め

森のなかを駆け巡りながら色々考えたことのストック、とたまに日常のこと

オリエンテーリングはなぜ面白いか

オリエンテーリング愛好家のみなさん、こんにちは。

筑波大学オリエンテーリング部4年の田中基成といいます。

この記事は僕ともう一人の部員(この人は最終日の執筆者になります、お楽しみに)と勢いで立ち上げた「オリエンティア Advent Calendar」(http://www.adventar.org/calendars/1681)の一記事です。広報をした当初、思っていたより反響が大きく、25枠という最初は集まるのかなと思っていた執筆者枠にも枠の数を遥かに上回る応募があり「なんだ、みんな書きたがりじゃないか」と笑いました。

今回のこの企画を通して読む人も書く人もワクワクしていただいて、そのワクワク感が日本のオリエンテーリング界をもっと楽しくする原動力・きっかけになれば幸いです。

 

さて、そんな企画の一発目であるこの記事。色々と書きたいことはあって悩みましたがわかりやすく「オリエンテーリングがなぜ面白いか」でいきます。

 

オリエンテーリングはなぜ面白いか

オリエンテーリング面白いですよね!

気がつけば競技を初めてもうすぐ4年。当たり前のように毎週末泥まみれになりに山に公園に行っていますが、なぜこんなに自分にとって面白いのかを考えてみました。

 

自然の中を走るのが面白い!

いまトレイルランニングウルトラマラソンがブームになっています。自然の中を走るだけでも楽しいのですが、オリエンテーリングの特色はやはりトレイル以外を走れるところ。方向だけを見て爽やかな森のなかをガシガシと直進、最高に気持ちがいい。そして、富士テレインでは岩がむき出しの沢をよじ登り、八ヶ岳テレインでは爽やかに走り、群馬テレインでは牧場の匂いを全身で感じる。そんな場所によって見せてくれる光景が違うのもまた魅力的。

 
ナビゲーションが面白い!

最近のロゲイニングブームも相まって、少しずつ認知されている「ナビゲーションスポーツ」という枠組み。しかし、オリエンテーリングにおける「ナビゲーション」はしばしば指摘されるようにマニアック。芸術的なコンタ表現・植生の繊細な記載・多すぎる地図記号など普段使うような地図からしたら明らかな情報過多。でも描いてある通りに特徴物が出てきて、コンパス直進を打てば目の前にコントロールが現れる、そんな繊細な地図を用いて行えるナビゲーションはやっぱり面白い。

また話はずれますが、古い旧図などを用いて練習会等を開催したときに、現地と地図の違いからその間にあったであろう出来事を想像するのも楽しかったりします。最近だと日光テレインの水系による侵食の進み方から「去年のあの大雨かなぁ…」とかしみじみ考えていました。

 
未だ踏み入れたことのない土地を、地図だけを武器にずんずん進むのが面白い!

鮮烈に覚えているのは初めて「裏砂漠・奥山砂漠」に入った時。生まれて初めて「砂漠」なるものに出会い、そこで雄大に広がる景色だけでも楽しいのに、地図が読めればずんずん走って行きたいところにいけてしまう。こんな経験はオリエンテーリングをやっていなければ絶対に味わうことがなかったはず。10km近いロングコースをずっと笑いながら走り回っていました。

やっぱり遠征が楽しいですよね、今年7月の札幌OLC大会遠征なんて最高でした。「ヒグマ怖い」とか「おおお、つくば在住の民が北海道の森のなかにいるよ…」なんてことを考えながら、夏の爽やかな森を走る。

それはまさに「非日常」で、とても刺激的。競技スポーツなのに常に新鮮でわくわくさせてくれる。オリエンテーリングしか持ち得ない素敵な要素って感じです。

 

 自己決定が結果として明確に自分にのしかかるのが面白い!

突然抽象的な話になりましたが、これもぼくが惹き寄せられる点です。

ミスしたときのあの嫌な違和感、それに気が付きながらも身体を止めることができずに傷口を広げてしまう。オリエンテーリング競技者なら誰しも知っているであろうあの感覚、ありますよね。

1つ前の項目ともリンクしていますが、誰も周囲におらず知らぬ土地で地図しか頼るものがないというなんとも特殊な状況。「走る」スポーツであるはずが、実は「身体を精神で制御する」スポーツとしての要素のほうがタイムに直結する。オリエンテーリングがタフなスポーツながらも、生涯スポーツとして長々と愛される理由として1つあると思います。身体が衰えてきても、考えたとおりに動き、目の前のコントロールが出てきたときのあの興奮はきっと衰えないはず。

 

 競技だけじゃない!

よく言われるやつですね、といっても色々な要素があると思うのでもう一つ下の要素を見てみようと思います。

 

旅行感覚で遠征できるのが楽しい

折角関東から苫小牧まで走りに行くのなら、ちょっと早く現地入りして前後で観光。もともとは弾丸遠征派だったので、最近こういうのもなかなか面白いなと。

マラソンなど色々なスポーツでも遠征はあると思うのですが、大半は施設や渉外の関係上で都市部ですよね。しかし、オリエンテーリングは辺鄙な山奥で開催されます。その周辺で観光となると、基本的にぱぱっとネットで探そうとしても情報は中々出てきません。先の苫小牧遠征ではこれが結構困りました、せっかくだから北海道ぽいことを思って探しても出てくるのはほっき貝の情報ばかり。そうなると車を借りてちょっと遠出するか~と少し離れた山に登りに行きました。インフラが整備されたところだと公共交通機関で少し移動して観光してとコンパクトな観光になるけども、山奥で観光地でもないとまずは視野を広げてどうにか見るものを探して…というところから、でもそれはそれで楽しいですよね。

 

地図が好き

意外とこういう話に上がらない項目な気がしますが、実は無意識に惹かれている人も多いのでは。

全国各地でその土地の地図が現地で手に入る、というだけでマニア心をくすぐられます。ましてや新規テレイン・大幅リメイクだと、地方の小さい大会でも「そこの地図持ってないし行くか…」ってなりますよね。某国盗りゲームに熱中している界隈の「国盗ってないし行くか…」と同じ匂いを感じます。集めたものをきれいにファイリングすれば、1日見ていても飽きない自分だけの図鑑に。

オリエンテーリング競技用の地図はその情報量から、マッパーによる独特の色が出ます。例えば等高線では大手2社は色はそう違いはありませんがYMOE社製は表現が「芸術的」だったり、NishiPRO社製だと「ぬめっ」としていたり、多摩OLクラブ製だとくすんだ灰色のような色だったり、トータス製だと薄いオレンジだったり。個性的で同じ地図は一枚もないというのがいい。全面リメイクされたら旧図と新図を比較して調査に思いを馳せニヤニヤ眺めるのもいい。

また、地図自体もそうですが地図タイトル・地図デザインもちょっとした工夫があるとにやっととしてしまいます。

地図タイトルに関してはプログラムに記載がないととてもワクワクします(旧図名だけとか、(仮)とか)。スタートまでわからない、地図をめくったときににやっとできるようなタイトルだといいですね。僕が一番好きなテレイン名はICR2015「自然休養村~星ふる丘で君を待つ~」、旧図の「☆彡しおや」のオマージュしつつ、なんというかゲームのラスボス感?、インカレリレーの決戦感?があってワクワクします(伝われ)。デザインだと、枠縁、題字、情報項目の配置、マスコットキャラクターとか。

東大OLK大会とかだと恒例になってますが、手書きの題字は萌えます。そういえば「矢板山苗代」の題字は、第34回筑波大大会の一週間前くらいに実行委員長に「いま適当に書いて!」と言われ、その場で僕が書いたものだったりします。自分の作ったものがずっと残って使ってもらっているのもやっぱり嬉しかったり。

 

大会運営が好き

日本のオリエンテーリング界を代表するような特徴ですね。

これほどまでに多くの競技者が大会運営に携わった事があるスポーツはなかなかなさそうです。その中でも運営が好きな人は、運営のどんなところが好きなのでしょうか。今日以降の記事でも、ちらほらと運営系のことについて書く方はいらっしゃるようですが、僕の場合だと「イベント」を作ることが原動力になります。コースなどの競技はもちろん、先程の地図の作成、演出、協賛など0からコンセプトを提示し、自由度の高いプロジェクトを動かすことができ、大会自体を自分の「作品」であるかのように作ることができるのはそれだけで魅力的です。

メジャー大会ももちろん、小さな大会でも細かい見どころや差別化されているところがあって運営者の意欲を感じます。

 

 人が面白い!

これは完全に僕の主観ですが、オリエンテーリング愛好家はオタク気質な方が多いように感じます。よく「内輪感がつよい」と言われることの一端がここにあるのではないでしょうか。僕自身も変なこだわりや、局所的な知識欲が強い人間なのでその中にいることは楽しいです。1つのコミュニティの中にこれだけ多様な方向性があって、それぞれが楽しくやっているそんな環境が一番好きなのかもしれません。

 

なんだか「オリエンテーリング賛美!」みたいな記事になってしまいましたが、当然個人の意見です。読んだあとに「あー、そういうとこも面白いよなぁ」と思った方がもしいらしたら、是非大会会場でお話しましょう!

これからクリスマスまで24人のいろいろな「オリエンテーリング」が読めるのが楽しみです。

 

明日はNishiPROの西村さんによる「地図版権」についてのお話!

 

 

 

 

 

 

 

後ろめたさなく自分のやってきたことを話せますか?

この間、同じ中高出身の東大生3人と飲む機会があった。

「先輩」と「同級生」と「一浪同級生」だったが、みんな楽しそうに自分のやっていること・勉強していることを話していた。当然、単位はぎりぎりで成績も狙ったCばかりの僕がそんな話し方をできるわけもない。僕が話せるのは大学でやってきた部活の話だけか…と思って話そうとしたところ引っかかった、話せない。話そうとした瞬間に「いや、お前そんなに楽しそうに話せるほど打ち込んでないだろ」という思いが突然押し寄せてきて、何も言えなくなってしまった。そう、自分の人生で何を話すにせよ「後ろめたさ」がなく話せるものが何一つないということに気が付いてしまったのである。

自分は要領がいい、と思っている。なので、大衆から認められる範囲のエネルギー消費で、認められる範囲の結果を出すことばかりやってきたのだ。最低限の結果が出るならば残りはすべてさぼる、さぼりきる。今までむしろプラスだと思っていた自分のそれを、ずっとそういう生き方をしてきたのだなという認識にたった3時間ほどの飲み会で嫌というほど実感させられてしまった。勉強も受験も運動も部活も就活何もかもであった。あまりにも脆弱な自分の芯が崩れたことで、あまりにも安っぽい今までの生き方が見えてみた。

 

なにか1つ、後ろめたさなく人に話すことのできる経験を作らなければいけない。とは思うものの、結局それをするのは自分である。

自分の芯について

ふと思い出すと、7,8月の自分の言動はいろいろと「これ本当に自分か?」と疑いたくなるようなものばかりであった。

 

原因は明らかで、7月頭のインカレ予選に落ちたことである。

今となっては「落ちるわけがないとどこか油断していた上での直前調整ミス」で自分の中で決着しているのだが、その時はなぜこんなことになってしまったのか全く分からず・のみこめず仕舞いだった。去年の10月から1年後のインカレを目指して自分の容量を割いてやってきた中で、唐突にその指針が思ってもみない形で消滅してしまったことに自己が耐えられなかった。そこから日々を消費する中での芯がなくなってしまったために、自分を証明するための価値観を模索しようと今までしたことも考えたこともなかったことに無暗に顔を突っ込んでいた。結局そんなところに自分があるわけもないのに。

一種の逃避行動であるが、ここまでダメージを食らったのは初めてだったので面白かった(今となってこそ言えるが)。自己が認識できなくなるとこんなところに自己を見出そうとするのか、と意外な自己が見えたことは新しい発見であったことは間違いない。

 

まあ何であれ、いまこうしてようやく自己を俯瞰してみることができるようになったということは、その状態は脱して他の状態に遷移したということに他ならない。

再スタートが切れた感じがする。

なぜ走るのか

「ランニングの世界」という冊子を読んでレビューを書くという授業のレポートで書いたもののコピペです。その号の特集は「なぜ走るのか」。
一部改変

「なぜ走るのか」、普段から走る生活をしている上で当然この問い掛けは自分にしたことがある。「走ること」は辛い上に時間をとられる、そこに価値を見いだせない人はそもそも走ろうとしないであろう。自分が「走っている」以上は自己の価値観を照らしあわせた上で、その行動に時間を割く・労力をかける価値を見出してるのである。走る人達たちが言う「走るといいことあるよ」という言葉。その「いいこと」とは何を指すのだろうか、結果として得ることの出来た栄光なのか、それとも外からは見えない自己の中で見つけることの出来た喜びだったのだろうか。
 一番わかり易い「走る」原動力として「記録が出ること」があるだろう。読んだ記事の中にロジャー・バニスターというイギリスの医学生が1マイル4分の壁を破るために走ったというものがあった。「自分の二足をもって、以前、誰しもできなかった頂点に達するためにあらゆる困難を征服する精神と肉体の挑戦は、若い時には非常に現実に富、魅力のあることでした。」とあるが、これがまさに彼にとって走ることに対して見出した価値を示している。達成感を得るためにはあらゆる困難を精神と肉体において征服しなければいけない、そのプロセスは非常に苦しいものである。自分が良かれと思い積んできた末に結果が出なかったのであれば、その積んできたものを否定し自分の中で受け止めなければならない。受け止められなければ、いま破ることのできなかった壁を破る突破口は得られない。苦しいが、その苦しさを上回る価値を見出す事ができたのであれば身体が「走ること」に向かう。
 もちろんそのようにストイックな方向のものだけでなく、とりあえずなんとなく走ることを始める人もいるだろう。小学校の持久走や「つくばマラソン」などがそうだ。授業だから、友達が履修するから一緒になどきっかけは能動的というより受動的なものの割合のほうが多いだろう。しかし、走り始めると段々と意識が変わってくる。普段走らない人からしてみたら5kmも「踏み入れたことのない未知の領域」であり、そのような踏み入れたことがなかった世界は外から見ると靄がかかっている。その靄の中には、一歩目に絶望的な自分の限界があるかもしれない、だとしたらその限界が見えないままにしておいたほうが「楽」なのである。しかし、受動的きっかけであろうと足を踏み入れてみると、そこに壁はなく意外と「やれる」自分が見えてくる。しかし、人はずっと頑張れるものでなくそのうち「飽きる」、とはいっても飽きることにも「なぜ?」を問いかけるとそこにもきっと理由がある。限界が意外と先であることがわかるとしばらくの間は伸びていく自分が楽しくて走ることが出来るが、伸びていった先にあるかもしれない限界に近づくことに対する抵抗と感情が拮抗した末に「まあこんなものでいいだろう」と思ってしまうと途端に足が止まる。これが所謂「飽きる」という3文字の単語が持つ本質的な意味合いであるのではないかと僕は考えている。その飽きという便宜上の言葉を征服した上で先に進むこと、これは普通の日常を送っていく中で得ることの難しいプロセスである。それはつくばマラソン受講者の「現状の自分と、マラソンを走る自分(理想)とのギャップを少しずつ埋めながら、ランナーへと成長していく」ことと同じであり、「走ること」のみに限定されない貴重かつ大きな経験となる。その経験がある人は、今後様々な場面で進まなければならなくなった時にきっと「やれる」自分を信じて前に進むことが出来るようになる。
 ネコも杓子も走るようになったいま、今回「なぜ走るのか」という問いかけについての特集記事を複数読み、昨今のランニングブームのきっかけを考えてみるとそんなところに答えの一つがあるんじゃないかと思う。人は成功経験を得て、自己肯定感を得たいという欲求を持っている、しかし価値観の多様化・手段の複雑化により何を取れば良いのかと選択を迷うことが多くなってきた中で、何も道具はいらずいますぐにでも実行することができ、自分の行動を時計1つで簡単に数値化することのできる「ランニング」。それに気が付き走り始めた人がいてメディアが「ブーム」として取り上げた、そうなると「走ること」は普通のことであり、きっかけのハードルはさらに下がり加速度的に爆発的ムーブメントとなった。ストイックなランナーも、市民ランナーも「走ること」に対する意志の強さに違いはあれど、原動力の根っこは一緒なのではないだろうか。漠然とした言葉であるが「走るといいことあるよ」の根源はきっとそこにあって、そうような目線で「走ること」を見てみるとなるほどなと思えてくるのである。