思考の掃き溜め

森のなかを駆け巡りながら色々考えたことのストック、とたまに日常のこと

後ろめたさなく自分のやってきたことを話せますか?

この間、同じ中高出身の東大生3人と飲む機会があった。

「先輩」と「同級生」と「一浪同級生」だったが、みんな楽しそうに自分のやっていること・勉強していることを話していた。当然、単位はぎりぎりで成績も狙ったCばかりの僕がそんな話し方をできるわけもない。僕が話せるのは大学でやってきた部活の話だけか…と思って話そうとしたところ引っかかった、話せない。話そうとした瞬間に「いや、お前そんなに楽しそうに話せるほど打ち込んでないだろ」という思いが突然押し寄せてきて、何も言えなくなってしまった。そう、自分の人生で何を話すにせよ「後ろめたさ」がなく話せるものが何一つないということに気が付いてしまったのである。

自分は要領がいい、と思っている。なので、大衆から認められる範囲のエネルギー消費で、認められる範囲の結果を出すことばかりやってきたのだ。最低限の結果が出るならば残りはすべてさぼる、さぼりきる。今までむしろプラスだと思っていた自分のそれを、ずっとそういう生き方をしてきたのだなという認識にたった3時間ほどの飲み会で嫌というほど実感させられてしまった。勉強も受験も運動も部活も就活何もかもであった。あまりにも脆弱な自分の芯が崩れたことで、あまりにも安っぽい今までの生き方が見えてみた。

 

なにか1つ、後ろめたさなく人に話すことのできる経験を作らなければいけない。とは思うものの、結局それをするのは自分である。

自分の芯について

ふと思い出すと、7,8月の自分の言動はいろいろと「これ本当に自分か?」と疑いたくなるようなものばかりであった。

 

原因は明らかで、7月頭のインカレ予選に落ちたことである。

今となっては「落ちるわけがないとどこか油断していた上での直前調整ミス」で自分の中で決着しているのだが、その時はなぜこんなことになってしまったのか全く分からず・のみこめず仕舞いだった。去年の10月から1年後のインカレを目指して自分の容量を割いてやってきた中で、唐突にその指針が思ってもみない形で消滅してしまったことに自己が耐えられなかった。そこから日々を消費する中での芯がなくなってしまったために、自分を証明するための価値観を模索しようと今までしたことも考えたこともなかったことに無暗に顔を突っ込んでいた。結局そんなところに自分があるわけもないのに。

一種の逃避行動であるが、ここまでダメージを食らったのは初めてだったので面白かった(今となってこそ言えるが)。自己が認識できなくなるとこんなところに自己を見出そうとするのか、と意外な自己が見えたことは新しい発見であったことは間違いない。

 

まあ何であれ、いまこうしてようやく自己を俯瞰してみることができるようになったということは、その状態は脱して他の状態に遷移したということに他ならない。

再スタートが切れた感じがする。

なぜ走るのか

「ランニングの世界」という冊子を読んでレビューを書くという授業のレポートで書いたもののコピペです。その号の特集は「なぜ走るのか」。
一部改変

「なぜ走るのか」、普段から走る生活をしている上で当然この問い掛けは自分にしたことがある。「走ること」は辛い上に時間をとられる、そこに価値を見いだせない人はそもそも走ろうとしないであろう。自分が「走っている」以上は自己の価値観を照らしあわせた上で、その行動に時間を割く・労力をかける価値を見出してるのである。走る人達たちが言う「走るといいことあるよ」という言葉。その「いいこと」とは何を指すのだろうか、結果として得ることの出来た栄光なのか、それとも外からは見えない自己の中で見つけることの出来た喜びだったのだろうか。
 一番わかり易い「走る」原動力として「記録が出ること」があるだろう。読んだ記事の中にロジャー・バニスターというイギリスの医学生が1マイル4分の壁を破るために走ったというものがあった。「自分の二足をもって、以前、誰しもできなかった頂点に達するためにあらゆる困難を征服する精神と肉体の挑戦は、若い時には非常に現実に富、魅力のあることでした。」とあるが、これがまさに彼にとって走ることに対して見出した価値を示している。達成感を得るためにはあらゆる困難を精神と肉体において征服しなければいけない、そのプロセスは非常に苦しいものである。自分が良かれと思い積んできた末に結果が出なかったのであれば、その積んできたものを否定し自分の中で受け止めなければならない。受け止められなければ、いま破ることのできなかった壁を破る突破口は得られない。苦しいが、その苦しさを上回る価値を見出す事ができたのであれば身体が「走ること」に向かう。
 もちろんそのようにストイックな方向のものだけでなく、とりあえずなんとなく走ることを始める人もいるだろう。小学校の持久走や「つくばマラソン」などがそうだ。授業だから、友達が履修するから一緒になどきっかけは能動的というより受動的なものの割合のほうが多いだろう。しかし、走り始めると段々と意識が変わってくる。普段走らない人からしてみたら5kmも「踏み入れたことのない未知の領域」であり、そのような踏み入れたことがなかった世界は外から見ると靄がかかっている。その靄の中には、一歩目に絶望的な自分の限界があるかもしれない、だとしたらその限界が見えないままにしておいたほうが「楽」なのである。しかし、受動的きっかけであろうと足を踏み入れてみると、そこに壁はなく意外と「やれる」自分が見えてくる。しかし、人はずっと頑張れるものでなくそのうち「飽きる」、とはいっても飽きることにも「なぜ?」を問いかけるとそこにもきっと理由がある。限界が意外と先であることがわかるとしばらくの間は伸びていく自分が楽しくて走ることが出来るが、伸びていった先にあるかもしれない限界に近づくことに対する抵抗と感情が拮抗した末に「まあこんなものでいいだろう」と思ってしまうと途端に足が止まる。これが所謂「飽きる」という3文字の単語が持つ本質的な意味合いであるのではないかと僕は考えている。その飽きという便宜上の言葉を征服した上で先に進むこと、これは普通の日常を送っていく中で得ることの難しいプロセスである。それはつくばマラソン受講者の「現状の自分と、マラソンを走る自分(理想)とのギャップを少しずつ埋めながら、ランナーへと成長していく」ことと同じであり、「走ること」のみに限定されない貴重かつ大きな経験となる。その経験がある人は、今後様々な場面で進まなければならなくなった時にきっと「やれる」自分を信じて前に進むことが出来るようになる。
 ネコも杓子も走るようになったいま、今回「なぜ走るのか」という問いかけについての特集記事を複数読み、昨今のランニングブームのきっかけを考えてみるとそんなところに答えの一つがあるんじゃないかと思う。人は成功経験を得て、自己肯定感を得たいという欲求を持っている、しかし価値観の多様化・手段の複雑化により何を取れば良いのかと選択を迷うことが多くなってきた中で、何も道具はいらずいますぐにでも実行することができ、自分の行動を時計1つで簡単に数値化することのできる「ランニング」。それに気が付き走り始めた人がいてメディアが「ブーム」として取り上げた、そうなると「走ること」は普通のことであり、きっかけのハードルはさらに下がり加速度的に爆発的ムーブメントとなった。ストイックなランナーも、市民ランナーも「走ること」に対する意志の強さに違いはあれど、原動力の根っこは一緒なのではないだろうか。漠然とした言葉であるが「走るといいことあるよ」の根源はきっとそこにあって、そうような目線で「走ること」を見てみるとなるほどなと思えてくるのである。

就職活動を通して思ったことのメモ

全体的にまとまりがなかったので一つの記事に集約しておきます。

あくまで僕個人の意見です。

 

就職活動を通して感じたこと

・自分のことって案外良くわかっていない

これは普段からも常々感じていましたが、自分の考えていることを言葉でロジカルに表現することは難しいです。自分の価値観にこだわりすぎず多くの人と接触して価値観をすり合わせ、客観的な意見をもらい自己の価値観を再構築していくことは就活に限らず人生を豊かにするのに大事だと思います。その点で、こうしてブログやSNSに文章を書いたり、オリエンテーリングを通して様々な環境・世代の方と意見を交わすことの出来た経験はとても大きなものでした。

また、その言語化が出来ないと自分がなにがしたいのかも見えてこないため企業選び・面接・ESあらゆる場面で困ると思います。恐らく人事の人が見ているのはそこなのだろうと一連のことを通して感じました。世間でよく聞く薄っぺらい就活情報なんて気にせず、普段から自問自答して過ごすのが最良の就活対策になりうると感じました。

 

・人生何があるか分からない

最終的に全く考えてなかった業界の研究職に落ち着きました。しかも、後述の通り偶然に偶然を重ねたような出会いの末にです。たまたまといえばたまたまですが、積極的に自分の知らない世界を顔を突っ込んで見るというスタンスで過ごしてきたがゆえに掴めた出会いだったと思います。「持っている」人は環境を引き寄せる、とよく聞く言葉がありますが、というよりそういう人たちは目の前に転がっているものを恐れること無く取り敢えず掴むからチャンスを逃さないと思っています。自分が100%そうやって生きていけているわけではないですが、こうしてワクワクするものを掴めたのでそう考えてきてよかったなぁと思います。思えばこんなに今の人生を楽しくしてくれたオリエンテーリングとの出会いも、合唱漬けだった高校生活からえいっと新しいスポーツを初めてみたからでした。

 

就職活動、辛いという話がもっぱらですが自分のことを考える機会、人に自分の話を聞いて貰える機会として捉えられるなら楽しめると思います。