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思考の掃き溜め

森のなかを駆け巡りながら色々考えたことのストック、とたまに日常のこと

自分の芯について

ふと思い出すと、7,8月の自分の言動はいろいろと「これ本当に自分か?」と疑いたくなるようなものばかりであった。

 

原因は明らかで、7月頭のインカレ予選に落ちたことである。

今となっては「落ちるわけがないとどこか油断していた上での直前調整ミス」で自分の中で決着しているのだが、その時はなぜこんなことになってしまったのか全く分からず・のみこめず仕舞いだった。去年の10月から1年後のインカレを目指して自分の容量を割いてやってきた中で、唐突にその指針が思ってもみない形で消滅してしまったことに自己が耐えられなかった。そこから日々を消費する中での芯がなくなってしまったために、自分を証明するための価値観を模索しようと今までしたことも考えたこともなかったことに無暗に顔を突っ込んでいた。結局そんなところに自分があるわけもないのに。

一種の逃避行動であるが、ここまでダメージを食らったのは初めてだったので面白かった(今となってこそ言えるが)。自己が認識できなくなるとこんなところに自己を見出そうとするのか、と意外な自己が見えたことは新しい発見であったことは間違いない。

 

まあ何であれ、いまこうしてようやく自己を俯瞰してみることができるようになったということは、その状態は脱して他の状態に遷移したということに他ならない。

再スタートが切れた感じがする。

なぜ走るのか

「ランニングの世界」という冊子を読んでレビューを書くという授業のレポートで書いたもののコピペです。その号の特集は「なぜ走るのか」。
一部改変

「なぜ走るのか」、普段から走る生活をしている上で当然この問い掛けは自分にしたことがある。「走ること」は辛い上に時間をとられる、そこに価値を見いだせない人はそもそも走ろうとしないであろう。自分が「走っている」以上は自己の価値観を照らしあわせた上で、その行動に時間を割く・労力をかける価値を見出してるのである。オリエンテーリングのインカレ3人リレー種目において、京都大学を2年連続で準優勝に導いたエースであった糸井川さんのTwitterプロフィールに以前乗っていた「走るといいことあるよ」という文言をいまもふと思い出すことがある。糸井川さんのいう「いいこと」とは何を指していたのだろうか、多くの戦績のことであったのか、それとも外からは見えない自己の中で見つけることの出来た喜びだったのだろうか。
 一番わかり易い「走る」原動力として「記録が出ること」があるだろう。読んだ記事の中にロジャー・バニスターというイギリスの医学生が1マイル4分の壁を破るために走ったというものがあった。「自分の二足をもって、以前、誰しもできなかった頂点に達するためにあらゆる困難を征服する精神と肉体の挑戦は、若い時には非常に現実に富、魅力のあることでした。」とあるが、これがまさに彼にとって走ることに対して見出した価値を示している。達成感を得るためにはあらゆる困難を精神と肉体において征服しなければいけない、そのプロセスは非常に苦しいものである。自分が良かれと思い積んできた末に結果が出なかったのであれば、その積んできたものを否定し自分の中で受け止めなければならない。受け止められなければ、いま破ることのできなかった壁を破る突破口は得られない。苦しいが、その苦しさを上回る価値を見出す事ができたのであれば身体が「走ること」に向かう。
 もちろんそのようにストイックな方向のものだけでなく、とりあえずなんとなく走ることを始める人もいるだろう。小学校の持久走や「つくばマラソン」などがそうだ。授業だから、友達が履修するから一緒になどきっかけは能動的というより受動的なものの割合のほうが多いだろう。しかし、走り始めると段々と意識が変わってくる。普段走らない人からしてみたら5kmも「踏み入れたことのない未知の領域」であり、そのような踏み入れたことがなかった世界は外から見ると靄がかかっている。その靄の中には、一歩目に絶望的な自分の限界があるかもしれない、だとしたらその限界が見えないままにしておいたほうが「楽」なのである。しかし、受動的きっかけであろうと足を踏み入れてみると、そこに壁はなく意外と「やれる」自分が見えてくる。しかし、人はずっと頑張れるものでなくそのうち「飽きる」、とはいっても飽きることにも「なぜ?」を問いかけるとそこにもきっと理由がある。限界が意外と先であることがわかるとしばらくの間は伸びていく自分が楽しくて走ることが出来るが、伸びていった先にあるかもしれない限界に近づくことに対する抵抗と感情が拮抗した末に「まあこんなものでいいだろう」と思ってしまうと途端に足が止まる。これが所謂「飽きる」という3文字の単語が持つ本質的な意味合いであるのではないかと僕は考えている。その飽きという便宜上の言葉を征服した上で先に進むこと、これは普通の日常を送っていく中で得ることの難しいプロセスである。それはつくばマラソン受講者の「現状の自分と、マラソンを走る自分(理想)とのギャップを少しずつ埋めながら、ランナーへと成長していく」ことと同じであり、「走ること」のみに限定されない貴重かつ大きな経験となる。その経験がある人は、今後様々な場面で進まなければならなくなった時にきっと「やれる」自分を信じて前に進むことが出来るようになる。
 ネコも杓子も走るようになったいま、今回「なぜ走るのか」という問いかけについての特集記事を複数読み、昨今のランニングブームのきっかけを考えてみるとそんなところに答えの一つがあるんじゃないかと思う。人は成功経験を得て、自己肯定感を得たいという欲求を持っている、しかし価値観の多様化・手段の複雑化により何を取れば良いのかと選択を迷うことが多くなってきた中で、何も道具はいらずいますぐにでも実行することができ、自分の行動を時計1つで簡単に数値化することのできる「ランニング」。それに気が付き走り始めた人がいてメディアが「ブーム」として取り上げた、そうなると「走ること」は普通のことであり、きっかけのハードルはさらに下がり加速度的に爆発的ムーブメントとなった。ストイックなランナーも、市民ランナーも「走ること」に対する意志の強さに違いはあれど、原動力の根っこは一緒なのではないだろうか。漠然とした言葉であるが「走るといいことあるよ」の根源はきっとそこにあって、そうような目線で「走ること」を見てみるとなるほどなと思えてくるのである。

就職活動を通して思ったことのメモ

全体的にまとまりがなかったので一つの記事に集約しておきます。

あくまで僕個人の意見です。

 

就職活動を通して感じたこと

・自分のことって案外良くわかっていない

これは普段からも常々感じていましたが、自分の考えていることを言葉でロジカルに表現することは難しいです。自分の価値観にこだわりすぎず多くの人と接触して価値観をすり合わせ、客観的な意見をもらい自己の価値観を再構築していくことは就活に限らず人生を豊かにするのに大事だと思います。その点で、こうしてブログやSNSに文章を書いたり、オリエンテーリングを通して様々な環境・世代の方と意見を交わすことの出来た経験はとても大きなものでした。

また、その言語化が出来ないと自分がなにがしたいのかも見えてこないため企業選び・面接・ESあらゆる場面で困ると思います。恐らく人事の人が見ているのはそこなのだろうと一連のことを通して感じました。世間でよく聞く薄っぺらい就活情報なんて気にせず、普段から自問自答して過ごすのが最良の就活対策になりうると感じました。

 

・人生何があるか分からない

最終的に全く考えてなかった業界の研究職に落ち着きました。しかも、後述の通り偶然に偶然を重ねたような出会いの末にです。たまたまといえばたまたまですが、積極的に自分の知らない世界を顔を突っ込んで見るというスタンスで過ごしてきたがゆえに掴めた出会いだったと思います。「持っている」人は環境を引き寄せる、とよく聞く言葉がありますが、というよりそういう人たちは目の前に転がっているものを恐れること無く取り敢えず掴むからチャンスを逃さないと思っています。自分が100%そうやって生きていけているわけではないですが、こうしてワクワクするものを掴めたのでそう考えてきてよかったなぁと思います。思えばこんなに今の人生を楽しくしてくれたオリエンテーリングとの出会いも、合唱漬けだった高校生活からえいっと新しいスポーツを初めてみたからでした。

 

就職活動、辛いという話がもっぱらですが自分のことを考える機会、人に自分の話を聞いて貰える機会として捉えられるなら楽しめると思います。

 

自分自身の言動に責任をもつということ。

最近また1つ自分の中で価値観が少し固まってきたので久しぶりに

 

自立した大人と、高校までの生徒の大きな違いはなんだろうか。高校までは立場が上の人にやるべきことをを与えられて、それをこなしているだけで評価されるけども、社会に出てはそうは行かない。そこの緩衝材になるのが「大学」という四年間。本来の「大学」のあるべき存在意義とは異なりますが、日本においてはそのような点に重きが置かれています。

「自分で考えて、意思決定をして、行動して、失敗した/成功した。」ということの経験の有無は大きく人の価値観をひっくり返します。言うなれば「自分の言動の責任をすべて自分が持つ」ということです。いままで言われたことをしっかりとこなしていれば褒められ、承認欲求を満たすことができていたのに、突然そうではない場に放り込まれます。「自身に責任をすべて持つ」ことをそれまでにこなしてきている人はそういないと思います。

僕の場合は高校での生徒会長での経験、などよりも親に「いいんじゃない」の一言で始めた東大に向けた受験勉強でした。僕の親は基本的に放任主義なので息子が何をしようと徳には何も言いません、そんな環境の中で仲の良かった友達二人がどちらも東大志望だったのでなんとなく流されて、僕なりに一生懸命に1年ないし半年はやってきました。そんな自分で始めたものがあっけなく本番二次どころかセンター試験で爆散してしまった時の衝撃はそれはそれは凄いものでした。それから今の筑波大を受験するまでの自分の意志の記憶は殆ど無く、地学・生物で受けられると理由だけで適当に選んで適当に受かっていました。

自分で勝手に始めたことなのでその失敗の責任をどこにも押し付けるけることが出来ずに、全て自分で飲み込むしかありません。僕は筑波大学に入ってからもその消化に半年以上かかりましたが、飲み込めた後に気がついたことは「今の自分の立場、価値観は自分の決定によって定められたものなんだな」というとこでした。この感覚は僕の中でとても大きい収穫で、それ以降僕は自分の言動の全てが自分の価値を決める、何も自分で決めなければ誰にも認められない、と思うようになり、大学に入るまで知りもしなかったよくわからないマイナースポーツに打ち込んだり、そんなスポーツの団体の運営に躍起になっています。実際それは外の人から見たらどこに価値を見出しているのかは分からないものかもしれませんが、自分の中では確かに自分を高めるものになっている実感があります。とても今が楽しいです。

そんな楽しい感覚を知ってもらいたくて、僕は部員に色々とうるさく話します。競技に打ち込めといっているわけではなく、せっかくこんなマイナースポーツの団体に属しているのだからそこに属している意味を自分で考えて見出してみようと。そんな感覚の押し付けは自己満足でしかないことはわかっているのですが、僕は楽しいのでその楽しさを知って欲しいです。

 

相変わらず書いている間にまとまりがなくなるのは良くないですね。